Human Resources (人材)

人生の無駄遣いを辞めたわけ

独立して一番変ったこと。
時間とお金と人に対する考え方。
サラリーマンの時は「いかに時間を消費するか」がテーマであった。
顧客のために働くといっても、どうしても、時間は消費の対象であった。
結局、サラリーマンは自らの時間を売って収入を得ているのである。
つまり、時間を消費して給料をもらう。
独立してこれが180度変わった。
独立すると当然、働かなければ収入はない。だが、私なりには「働く」というよりも「動く」が適している。
とにかく「動かなければ収入がない」という感覚である。
人(にんべん)が取れたのである。

サラリーマンの時には、私の行動すべてに人が添えられ「働く」になっていた。
だが、独立して「働く」から付添い人がいなくなり「動く」になったのである。
サラリーマン時代は付添い人がいるから、たとえ自分の稼ぎがなくとも組織が解決してくれる。給料が支払われないということはない。
しかし、独立すると付添い人がいない。稼ぎがないと自分の収入がないばかりか、従業員に払う給料さえない。
だからとにかく動く、効果的に動くために考えに考える。これが自立なのであろう。

そして、動いたら動いた分だけ収入につながるのも事実である。確実に収入になることを考え行動しているから、当然といえば当然である。

時間を消費してお金をもらうのではなく、行動することでお金になるのである。
動けば動いただけ、もっと言えば、人の役に立てれば、その分、見返りとしてお金になるのである。
だから、無駄に時間を過ごすことは機会損失につながる。
いかに、この無駄な時間を減らし、時間を有効活用するかがそのまま収入の増大になる。
そう考えると、時間を消費するという観念は持ちようがない。
もう、収入を増やす方法を考える必要はない。なぜならば、時間は誰にも公平に与えられている。既に目の前にお金に変換可能な時間があるのだから。
そして、時間をお金に変換するには自分が世の中の役に立てればお金になるのであるから。
目の前を高価な錦鯉がウヨウヨ泳いでいる状態である。
また、人の見方が変わった。
サラリーマン時代は与えられた職務の枠の中でしか人を判断しなかった。あとはプライベートで会っても楽しいかどうか、くらい。与えられた職務と関係のない仕事をしている人とは、話しても広がりを持たせられなかった。
また、先ほどの時間に対する考えから、時間の浪費を嫌って、やたらと人とは会おうとは思わなかった。

独立したら、会う人と会う人皆、どうやって活用できるかを考えるようになった。
また、ある能力やスキルを持っている人と会ったら、どうやったらこの才能をうまくお金に変換できるだろうか。
というようなことを考えるようになった。
採用面接も、真剣に、その人が持つ能力を見つけ出し、能力の使い方を考える。
誰しも皆、能力を持っている。だから、そのときのためにその人を大切にして関係を保っていこうと考える。

先日、営業の電話がきっかけである会社に勤めている人と個人的に会う機会があった。ついつい、その人の能力の見極めに走ってしまい、その能力に対して、「こういうニーズがあるから、こうすれば副収入は得られるよ」という話しをした。

経営の資源は、ヒト、モノ、カネ、そして情報である。知識を売り物にしている当社は特にヒトが重要である。
だから時間をポジティブに使い、持てる能力を存分に発揮することで、社会に貢献するよう毎日話している。

昔の仲間、ではない。

近頃、何かの縁か、8年以上も会っていない昔の仕事仲間と会う機会が立て続けにあった。

共通して思うことは、肌が合うことである。
つまり、考え方、大切にしていること、目指しているものなどの方向性が同じなのである。
実際に一緒に仕事をしたら対立する場面もあるだろうが、それでも一度決めた方向に全力を尽くしていけるのではないだろうか、というような感覚である。

これは非常に重要なことである。このように思える人はなかなかいない。私にとってとても貴重な存在である。
これは昔の仲間ではない、今の仲間である。

IQだけではダメだ-6・8 秋葉原での通り魔の読み方

IQの高さが人の能力の高さ、人の幸せを保証するものではないことは明らかだ。

しかしながら、IQや記憶力だけで判断しようとしているケースがないだろうか。
さらに深刻なことはEQの欠落による、人の心を踏みにじる行為が平然と行われることだ。

EQとは感情をコントロールする能力の高さを表す。
詳しくはダニエル・ゴールマン『EQ こころの知能指数』をお読みいただきたい。
さて、秋葉原の通り魔-殺人犯-は学校での勉強はよくできたらしいが、それが事実だとしても何の意味もない。社会の勉強、人間の勉強といった類のものは落第である。
それらは生まれたときから始まり、死ぬまで続ける勉強であろう。自分の言動が他人に与えた影響を知ることができる、他人の反応からどう対応したらいいか考え行動することができる、人の喜びや痛みに共感できる、そういった能力の開発である。

今の日本の学校の授業では取り扱わない内容である。学校ではほとんどがIQの開発だと言える。
EQの開発にもっともっとリソースを注ぐべきであろう。

価値への固執 - 私の価値は何か?

プロジェクトチームメンバーのAさん。ユーザーからの問い合わせの1次対応をしている。

1次対応とは、ユーザーから見た質問やトラブルに関する受付の窓口であり、回答してくれる人である。
1次対応で解決できないことは、分野ごとにさらに詳しい人に尋ね、得た回答をユーザーに伝えることである。だからユーザーの質問とその回答を理解しなければそれはできない。
さて、そのAさんは何をしているのかというと、ユーザーからの問い合わせ内容をExcelに書き込み、1つ1つ解決したかどうかを確認しているのである。これ自体は問題ない。
問題はその次である。

Aさん: 「この件、ユーザーに回答してくれますか。」と私にいった。

私: 「ん?何の件?」

Aさん: (ユーザーから送られてきたメールの内容を読み上げた。)

私: 「要はどういうことなの?」

Aさん: 「わかりません。メールにはこう書いています。」

私: 「。。。。。」
Aさんは、ただ単に、ユーザーの質問内容も理解せずに、文中にあるキーワードを元に2次対応に転送しているだけなのである。
「Aさんの価値はどこにあるの?自分の仕事の範囲をどこからどこまで規定しているの?」

Aさん: 「問い合わせをExcelに入力して進捗を管理しています。」

その後も観察していると、AさんはExcelに入力した1件1件の問い合わせに対して「Close」(解決済み)と入力することに自らの価値を置いているのである。
価値ある仕事だろうか。自己満足ではないだろうか。

目的は職務のレベルに応じて異なるが、Aさんの場合「ユーザーの疑問・質問・直面している問題を解決すること。自力で解決できない問題は適切な人に聞く。」ことが最低ラインの価値であろう。
それを少し引き上げれば「ユーザーが効果的、効率的にシステムを利用できるようにする」といったことも追加される。また別の立場の人であれば「ユーザーがシステムを利用することで、売上げにつながるヒントを得られるようにする」とか「価値の創造を促進する」、「売上げの成長率を高める」、「粗利の高い商売につなげる」といったことになろう。

この最低ラインは自分が決めることではない。今回の場合、プロジェクトチームのメンバーとユーザーが決める。自分は価値を引き上げる努力をしながら周囲の反応を確認することになる。
自分が出した成果のどこにユーザーが満足したのかを探る必要がある。

そのためには試行錯誤しながら自分自身の価値を明確なものにする努力が必要である。