Human Resources (人材)

知識は何種類あると思いますか?

知識」と呼ばれるものを思い浮かべてみてください。どんなものがありますか?

代表的なものは、本から得られる知識、学校の授業で教える知識、インターネットを検索して得られる情報、政府が発表する調査結果データなどですね。

では、言語はどうですか?
英語が話せる能力は、単語や熟語、文法などの知識の結果でしょうか。
ということは、単語や熟語、文法をたくさん知っていれば英語が話せるようになるということでしょうか。
でも、単語や熟語、文法をほとんど知らない子どもでも、日本語を話すことができます。
ということは、単語や熟語、文法も必要ですが、それらとは別の知識もありそうですね。

「それらとは別の知識」とは何でしょうか。
よく「海外で3年も暮せば英語はペラペラになる」なんて言いますが。。
それは「経験」ではないでしょうか。
広い意味で「経験」も知識の内なんです。

これからお話しする知識については、世界的にも確固たる地位を得ている野中 郁次郎の『知識創造企業』 の最初の部分だけでも読むことをお勧めしますが、私の経験を交えながら簡単に紹介いたします。

知識には、目に見える形式知と、体で覚えるような暗黙知があると言われています。
知識は形式知になったり、暗黙知になったりしながらスパイラル的に向上していくというのです。
(「スパイラル的に向上する」ということについては深い議論になるのでここでは割愛します。)

問題にすべきは「暗黙知」です。
自分はわかっているから、他の人も知っていて当然、できて当然、話せばわかる、という性質のものではありません。
他の人にはわかりません。

何か人に依頼する場合は、暗黙知を形式知化しない限り絶対に伝わりません。
形式知化とは、文書にするとか、口頭で説明するということです。
例え話しで、長嶋茂雄がバッティングを教えるときに「ボールがビュッときたらバシッと捉えてスッと打つんだ」と彼が持つ暗黙知を、彼なりに形式知化しようとしているのですが、教えられている方は何もわからないというのがあります。

特に感覚的な暗黙知を形式知化するのは大変な努力が必要です。
この暗黙知を認識していないと大変なことになります。
・簡単なことだから、わかる人にはわかるはずだ、と外注コストを低く見積もり過ぎたり。
・数回説明しただけであとはわかるだろうと、仕事を丸投げして、結局意図したものができなかったり。
・できたものに対して、「ダメだ直せ」といっても、どこをどう直していいのか伝わらず、いつまでたっても出来上がらない。
などなど。あげればいくらでもあります。

結局、自分にしかわからないことは自分がやるしかありません。
さもなくば、暗黙知を形式知化する労力を惜しまないことだと思います。
これは時に膨大な時間と労力を必要とします。自分がやった方が早いとさえ思えるでしょうが、自分に時間がないならば人にやってもらうしかありません。
それこそ付きっ切りで伝えるくらいに腹を決めておくことが必要かもしれません、ね。

私にとってはあなたが必要です

「子ども自身が社会に必要とされていると実感してもらうことが大人の仕事」
そしてこの仕事が広い意味での教育だという。
これは千葉市長 熊谷俊人さんの言葉である。(朝日新聞 2011年1月7日付け 朝刊より)

私はこの言葉に同意する。

「好きこそものの上手なれ」
好きだから、楽しいから、やりたいから、一生懸命にやる。
こういう能動的な気持ちが上達へのすなおな道筋の始まりだ。

必要とされているから、あの人のためになりたいから、役に立ちたいから、諦めたくない。
迷いなく、突き進む原動力となる。
私たちは子どもたちにどんな教育を提供できているだろうか。
国語、算数、理科、社会、英語、体育、音楽、道徳・・・

カテゴライズされた学問を並べてみた。
これらは教育の一部であって教育すべてを言い表しているわけではない。

一方、会社でも同じことが言える。
「私の会社は社員教育に力を入れており、環境が整っている。プレゼンやコミュニケーションの研修から、エクセルやITシステムなどの研修までメニューが取り揃えてあり、社員は必要があればいつでも無料で受講できる」

これだけでも十分、会社としては大変なことである。
お金も費用もかかる。ここまでできている会社は世の中に10%もないだろうと思う。
しかし、これだけでは効果が小さい。

やはり、好きな仕事、人の役にたっていることが実感できる仕事、自身が必要とされていることがわかる仕事に就いていて、目標達成のために研修を受けたい、と思える会社であり、その機会が用意されていたら、最高だ。

昨今の情勢から、社会に必要とされていると感じられる仕事を見つけられたら、それだけで幸せだと思う。

人は皆、公平でもないし、平等でもない。だから...

人は皆、公平でも平等でもないことは疑う余地はない。
だけれどもそれは認めたくない、というのが人情だろうか。

私が小学5年生の時、高さ50cmくらいもあるガンプラ(ガンダムのプラモデル)をいくつも買ってもらっている友達がいた。
私はというと、そんな高価なおもちゃを買ってもらえなかった、というか、買ってもらえるとは思ったこともないから欲しいと口にしたこともなかった。

別の友達は、夜遅くにならないと働きに出ている両親が帰ってこないため、いつも1人だった。

また他の友達は、理由はわからないがお父さんがいなくて、お母さんだけだった。

中学の時、私は死に物狂いで勉強しても学年で30番台が精一杯だというのに、家で勉強はほとんどしないというクラスメイトは中間・期末テストでいつも1番だった。

徒競走では、どんなにがんばっても勝てない足の速い友人がいた。

私はなぜか障害競走ではいつも先頭だった。

「わたしたちすべての人間は、生まれながらにしてなんらかの環境的運命を背負っています。青春とは、その運命に対する挑戦であり、自分自身のきびしい開拓の場なのです」
「平和のためのかけ橋に」横田邦子(猪口邦子)1971年度 青年の主張 全国大会にて
(2010年4月7日付け 日本経済新聞朝刊より)

これを読んだとき、なるほど!これなら誰もがやる気になるな、と思った。
家にお金がない、走るのが遅い、がんばっても勉強できない私...
その理由を自分自身(内的)に求めて自らを責めるよりは、「環境的運命」と言い切って、外的要因のせいにしてしまえば随分気が楽になる。

「環境」は外的要因であり、内的要因のようにコントロール不可能であるからだ。

だがこの話はまだ続く。
コントロール不可能な外的要因を克服すべく挑戦することが青春であり、それが自らを成長させるというのである。
外的要因はどうしようもないんだからと諦めない内が青春だとも読み取れる。
そして、青春は成長の機会である、と。

続・あなたは今、幸せですか?

あなたは今、幸せですか? 」の続き。

「アバター」を見て、幸せとは何かを考えさせられた。思い知らされた。

アバターは、ストーリーをここで書くと、きっとそれほど新しいものではない、と思われてしまうだろう。
80%は見ながら次が予測できる。「次はどうなるのだろう」とワクワクするような内容ではない。
にも関わらず、惹きつけられる、目を見張る、息を呑む、感動する、身を乗り出す、関心する、考えさせられる、試される。。。

ネタバレになってしまうので、アバターの話はここまでにして。

幸せとはかなり高次の感情だといえる。
欲望とは次元が違う。

欲望を満たすことが幸せになると勘違いしてはいけない。
金、地位、名誉、時間、ゆとり、希望、健康、自由、愛情・・・・

これら全てを手に入れたからといって幸せにはなれない。

これらが不足していても幸せを感じることができる。
つまり、「自分が強く信じられる大切なもの」があるかないかが重要だと思う。
私はこの行為を許すわけにはいかないが、自爆テロを行う人は、恐らく幸せなんだろうと思う。
自分が信じる大切なものを守るために、命をかける。未来のため、家族のため、友のため、そして自分のため。

自他のためになる、自分が信じる大切なもの。
それを持っているかどうか。

当たり前のことではあるが、日常に追われ忘れてしまっていた。