Human Resources (人材)

息子がぐずって保育園に行きたがらない

2歳の息子が保育園に行かないと言い出した。
まだしっかりと言葉を話せるわけではないから、実際にはそう言ったわけではない。が、

朝、保育園に行こうと玄関を出ようとするところでぐずる。
保育園へ向かう分かれ道でぐずる。
保育園の入り口でぐずる。
泣き叫んで、仰け反って、行きたくないという意思を示しているのである。
だから、抱きかかえられて無理やり保育園の先生に預けられるのである。

毎朝のことなので、妻も手を焼いてどうしようもないというから私の出番になった。
その朝、例のごとく「行きたくない」とぐずり始めた。
もう、その日は何時間でも付き合うつもりだった。

何で行きたくないのか聞いた。
「お友達が嫌なの?」「先生が嫌なの?」
どっちも嫌だと言う。
ハッキリした理由があるわけではなさそうだった。

いじめれらているといったことではなさそうなので、とりあえず強制的に保育園まで連れて行った。
部屋の入り口で「どうしても行きたくない」という。

私)「それじゃどこに行きたいんだ?」
息子)「コーエン(公園)」
私)「パパは会社に行くから1人ぼっちだよ」
息子)「いいーよ。」

ということで、近くの行きつけの公園に連れて行き、1人置いて会社へ行くフリをした。
少し間をおいて、泣きながら後を追ってきた。

私)「それじゃ、どうするの?」
息子)「おうち帰る」
私)「いいよ、でもパパは会社に行くから1人でお留守番だよ」
息子)「いいーよ。」

妻が出かけたころを見計らって、家に帰り、1人置いて「会社に行ってくる」と家を出た。
すぐに、家の中で「パパー、ママー」と泣き出した。
ここはじっとガマン。

日中はみんなそれぞれ仕事があって、家にはいないということを知ってもらわないとならない。
3分くらいして家に戻り、もう1度保育園に連れて行った。
やはり行きたくないという。
そこで、園の庭で思い出を作ることにした。

息子を抱っこして、「木の芽があるね」とか「さくらんぼが残ってるね」とか園の庭の4隅を中心に観察した。

遊具に座って一緒に空を眺めたりもした。

少し高い所に立って「すごいよー」と言う息子。

「寒い、寒い」と言いながら、日の当る場所を探して移動したり。

日常の延長で特に変わりない時間を過ごした。

だが、よく考えてみれば、息子が生まれたときにはもうお姉ちゃんがいて、父子2人きりで過ごした時間はほとんどなかった。

恐らく、初めて2人でゆっくりした時間だったと思う。
そのうち、息子は自分で階段を上って2階の友達が待つ部屋へ行った。

大学受験に失敗したら働くつもり

先日、神保町駅で下車してある顧客まで行ったときの話しである。

今までその顧客の会社へは九段下の駅で下車して行っていた。
ただ、それだと、渋谷で乗り換えないとならない。面倒である。

別ルートで半蔵門線を利用することも可能だったが、どうもしっくりこなかった。
調子が乗らないのである。フィーリングが合わないのだろう。

ということで、駅から少し歩くことになるが、その日は神保町駅で下車することにした。

神保町の駅には別名(シノニム)がある。「専修大学前」。

専修大学の神田校舎の最寄り駅が神保町であることはずっと昔から知っている。
私はその大学の卒業生だから。

私は「専修大学」の文字を見るたびに身が震える。
感謝の気持ちで一杯になる。涙さえでそうになる。

今の私のスタートラインを与えてくれた大学だからだ。

受験当時、私の偏差値の平均は50に届かなかった。定期的な模試で、30代の偏差値だって珍しくなかった。
そんな私を受け入れてくれた唯一の大学。

私の高校時代は、電気の勉強ばかりで、受験科目の勉強など一切したことがなかった。
英語、数学、古文、現代文、世界史、日本史、物理、生物学などほとんど中学生レベルの内容ばかりであった。

そんな私がそこを飛び出して、大学受験に挑戦したのである。
大学受験に失敗したら働くつもりだった。

受験日までちょうど1年という時に、進学したい大学を探すことからはじめた。
慶応、早稲田、東大くらいしか知らなかったが、そのときに初めて「日東駒専」という言葉を聞いた。
なぜか、専修大学が気になった。
ここに行けなかったら、大学進学はあきらめようと思った。
が、いちおう、日大、東洋、青学、センター試験も受けた。

結果的に合格したのは専修大学だけだったのだが。。。

さて、専修大学の受験は、英語、国語、数学の3科目。
英語と国語は30点くらいだったんじゃないかと思う。まったくといってよいほどわからなかった。

だが、数学だけは別格だった。
数学だけは100点の自信があった。時間的に余裕もあり、十分見直しもできた。

実は、数学だけは好きで、得意だった。
唯一、勉強しただけ結果が表れた科目だった。
だから、もっとも勉強に時間を費やした。

それでも、3科目の平均点で見れば、不合格間違いなし、だったろう。
だが、合格したのである。

恐らく、数学だけで入学させてくれたのだ。
たった1つだけだができていたから入学させてくれたのだ。

平均で判断せずに、1つだけでも長所があれば取り上げる。
専修大学がそうしてくれたから今の私があるのは事実である。
もっと言えば、私を採用してくれた会社も同じであろう。

だからだろうか。
私は平均的にできる人よりも、1つでも飛び抜けたものを持っている人が気になる。
当然、平均的にできる人も組織にとって必要であるのに。

意思決定なきミーティングこそ、必要

今日、ある人と2時間20分の話し合い、ミーティングを持った。
話題の80%はいつも話す内容と同じで、最終的にお互い何をすべきか、具体的なことは決めなかった。
具体的な決め事とは、いわゆる5W1H。誰が(Who)、何を(What)、いつまでに(When)、どこで(Where)、どのように(How) 行うのか。
意思決定をしなかった、ということである。

2時間以上も話合って、何ら意思決定がされなかったのには理由がある。
それは、マイルストーンがないからである。

既に方向性は1年以上前から共有されており、その線上で粛々と進められているのだが、基準となるマイルストーンがないのである。
マイルストーンとは、道に点在する一里塚。長期目標を達成するための短期目標のことである。
例えれば、現在アメリカの西海岸にあるサンフランシスコにいて、東海岸にあるニューヨークまで行こう、とは決めているが、どのルートで行くのか、いつまでにゴールするのか、交通手段はどうするのかなど、一切決めずに歩き出しているのと同じである。
だから、毎回何かに出くわす度に、「さぁ、どこへどのルートで行こうか」と白紙から話し合うのである。
話し合う度に、過去・現在の状況、目標とする未来像を確認し、何をすべきか出し合うのである。
過去の状況と将来像に変わりはないから、当然、話し合いを重ねれば重ねるほど、ほとんどが以前に話し合ったことと同じになる。
実際、一語一句違わないセリフが幾度となく登場するのである。「イザとなれば、あれをやる」と。
聞く度に「またその話か」と思ってしまう。

恐らくほとんどの人が「こんな非効率的なことはない」と思うだろう。
全くその通りである。

目標とする将来像、言い換えればビジネスのビジョンであるが、これはそうコロコロ変わるものではない。
ビジョンを達成するための戦略と戦術も、リソース(ヒト・モノ・カネ)が限られているから、選択肢はほとんどない。
あとは進むだけ、という状況である。
と、すれば、なおさら、マイルストーンの重要性が高まる。

それなにのになぜマイルストーンがないのか。
意思決定を嫌う体質が見え隠れする。
「その時になって見なければわからない」ということである。
私は、意思決定をし、定期的に見直す、というプロセスの積み重ねが効率的・効果的な前進をもたらすと考える。
だからマイルストーンは絶対的なものではなく、その時々で見直し、必要に応じて変更すればいいと思うのだが、そうは行かないのである。
「期日を決めてできるものではない」というのである。

つまり、ビジネスの進め方について、サイエンス(科学)よりもアート(芸術)を重視しているのである。
いつ起こるのかわからないが、神が降りてくるのを待つようなやり方である。
だから、マイルストーンを決めるなんて愚の骨頂というのである。

さて、この毎回繰り広げられる2時間に及ぶミーティングの目的とは何なのか。
少なくとも意思決定ではないことはここまで書いたとおりである。
その目的は「不安払拭」なのである。
・共有するビジョンの確認をする。
・イザという時の奥の手の確認をする。
・過去の成功から満足感を得る。もう十分やったと自らを納得させる。
・まだ手詰まりではない、打つべき手が、まだ、とにかくたくさんあることを確認する。

そういったことで、不安を打ち消そうとすることなのである。
また、話すだけで気が楽になるという効果もある。

だから、悲観的な話はすべきではない。
楽観的な話に終始すれば、短時間で終わる「話し合い」なのである。

もちろん、マイルストーンを決めることは重要なことである。
だが、不安と悲観しかない中では、何の効用も見込めない。

まずは、不安を拭い去り、楽観させ、遠くの光を見せることが肝心なのである。
それから、光へ到達するためのルート、マイルストーンを作り出すことが力を引き出すコツといえる。

世界の中でも優秀だと言われる日本人だが、悲観論がはびこり、株式市場は震源地アメリカよりも落ち込んだまま。
その背景には不安を払拭する作業が不足しているのかもしれない。

生きている価値のある人とない人

「底辺」生きる価値ないの

被害者の高校生をネット中傷
《被害者が通っていた高校は所謂DQN校です。犯人が通っていた高校は所謂進学校です。被害者は生きている価値がないDQNです》
《犯人の高校の偏差値65なの?これはどう見ても死んだ奴が悪いな》
DQNとは「偏差値が低く、常識がない」ことを意味するインターネット上の蔑称で、「ドキュン」に英字をあてた表記。非常識な素人などが多く出演したテレビ番組の名前から広まった。
今夏、ある男子高校生が、別の高校に通う男子を殺害する事件があった。被害者の生徒と交際していた女子高校生をめぐるトラブルだった。
だが、加害者と被害者の通う高校の偏差値の差が、事件に別の影を落とす。直後からネットの掲示板に、こうした書き込みがあふれていった。
・・・
(2008年12月30日 朝日新聞の朝刊より)

ネットの掲示板の書き込みを読んだ、被害者と同じ高校に通う学生の心の苦痛が書かれていました。
「めっちゃ悔しい!なんでこんなこと言われなきゃいけないの!」
「偏差値が人の命の価値まで決めてしまうってどういうこと」

 

まず、「偏差値」とは何でしょうか。

「偏差値」は、学力の一部を測る物差し」といえます。

「学力の一部」としたわけは、「学力」には測定が可能なものと、不可能なものがあるからです。

わかりやすいところで言えば、四則演算ができるかできないかは測定可能です。

音楽の演奏や美術で描く絵など芸術的なものは測定不可能です。

「偏差値」は測定可能な学力に焦点を絞って算出されます。

そういうことから偏差値には学力の一部しか反映されていません。

体育でのマラソンのタイムも測定可能ですが、それは偏差値の要素に入っていません。

ほとんどの学校の入試試験にマラソンがないからでしょう。

そうするとつまり、「偏差値は、多くの学校の入試試験科目に対応した、学力の一部を測る物差し」ということですね。

偏差値について正しく理解している人にとっては回りくどかったと思いますが、違う理解をしている人が少なくないようです。

「偏差値は、人の価値を測るものさし」と口には出さずとも、心のどこかでそう思っている人がいるのは事実でしょう。

これまでの会社までもが学歴偏重であった事実を見れば、仕方がないと思いますが、「偏差値」だけで世の中を理解しようとしているとすれば、のっぺりとした凹凸のない世界しか見えていないんだろうと思います。

海外からの留学生に「へー、で、君の大学の偏差値はどのくらいなの?」なんて聞く人もいるらしい。
実際の世の中には、さまざまな「ものさし」を持った人が存在します。

良いものさしと悪いものさしがあります。

それらを見抜くには、いろんな種類のものさしが必要です。それぞれのものさしを磨いておく必要もあります。

世界の中の日本、日本人としてこれから活躍することを念頭に、柔軟なものさしも必要でしょう。

「偏差値」というものさししか持たない学生も、これからさまざまな人々との出会いを通じ、多種多様なものさしの存在を知り、いかに無知であったか、きっと学ぶこととなるでしょう。
最後に、新聞記事の見出し『「底辺」生きる価値ないの』の「底辺」が非常に気に入らない。

『無知な偏差値偏重主義』とか、『学歴偏重の歪み』とか、『学歴偏重が産み出す差別』とかできなかったかな。