Human Resources (人材)

私にとってはあなたが必要です

「子ども自身が社会に必要とされていると実感してもらうことが大人の仕事」
そしてこの仕事が広い意味での教育だという。
これは千葉市長 熊谷俊人さんの言葉である。(朝日新聞 2011年1月7日付け 朝刊より)

私はこの言葉に同意する。

「好きこそものの上手なれ」
好きだから、楽しいから、やりたいから、一生懸命にやる。
こういう能動的な気持ちが上達へのすなおな道筋の始まりだ。

必要とされているから、あの人のためになりたいから、役に立ちたいから、諦めたくない。
迷いなく、突き進む原動力となる。
私たちは子どもたちにどんな教育を提供できているだろうか。
国語、算数、理科、社会、英語、体育、音楽、道徳・・・

カテゴライズされた学問を並べてみた。
これらは教育の一部であって教育すべてを言い表しているわけではない。

一方、会社でも同じことが言える。
「私の会社は社員教育に力を入れており、環境が整っている。プレゼンやコミュニケーションの研修から、エクセルやITシステムなどの研修までメニューが取り揃えてあり、社員は必要があればいつでも無料で受講できる」

これだけでも十分、会社としては大変なことである。
お金も費用もかかる。ここまでできている会社は世の中に10%もないだろうと思う。
しかし、これだけでは効果が小さい。

やはり、好きな仕事、人の役にたっていることが実感できる仕事、自身が必要とされていることがわかる仕事に就いていて、目標達成のために研修を受けたい、と思える会社であり、その機会が用意されていたら、最高だ。

昨今の情勢から、社会に必要とされていると感じられる仕事を見つけられたら、それだけで幸せだと思う。

人は皆、公平でもないし、平等でもない。だから...

人は皆、公平でも平等でもないことは疑う余地はない。
だけれどもそれは認めたくない、というのが人情だろうか。

私が小学5年生の時、高さ50cmくらいもあるガンプラ(ガンダムのプラモデル)をいくつも買ってもらっている友達がいた。
私はというと、そんな高価なおもちゃを買ってもらえなかった、というか、買ってもらえるとは思ったこともないから欲しいと口にしたこともなかった。

別の友達は、夜遅くにならないと働きに出ている両親が帰ってこないため、いつも1人だった。

また他の友達は、理由はわからないがお父さんがいなくて、お母さんだけだった。

中学の時、私は死に物狂いで勉強しても学年で30番台が精一杯だというのに、家で勉強はほとんどしないというクラスメイトは中間・期末テストでいつも1番だった。

徒競走では、どんなにがんばっても勝てない足の速い友人がいた。

私はなぜか障害競走ではいつも先頭だった。

「わたしたちすべての人間は、生まれながらにしてなんらかの環境的運命を背負っています。青春とは、その運命に対する挑戦であり、自分自身のきびしい開拓の場なのです」
「平和のためのかけ橋に」横田邦子(猪口邦子)1971年度 青年の主張 全国大会にて
(2010年4月7日付け 日本経済新聞朝刊より)

これを読んだとき、なるほど!これなら誰もがやる気になるな、と思った。
家にお金がない、走るのが遅い、がんばっても勉強できない私...
その理由を自分自身(内的)に求めて自らを責めるよりは、「環境的運命」と言い切って、外的要因のせいにしてしまえば随分気が楽になる。

「環境」は外的要因であり、内的要因のようにコントロール不可能であるからだ。

だがこの話はまだ続く。
コントロール不可能な外的要因を克服すべく挑戦することが青春であり、それが自らを成長させるというのである。
外的要因はどうしようもないんだからと諦めない内が青春だとも読み取れる。
そして、青春は成長の機会である、と。

続・あなたは今、幸せですか?

あなたは今、幸せですか? 」の続き。

「アバター」を見て、幸せとは何かを考えさせられた。思い知らされた。

アバターは、ストーリーをここで書くと、きっとそれほど新しいものではない、と思われてしまうだろう。
80%は見ながら次が予測できる。「次はどうなるのだろう」とワクワクするような内容ではない。
にも関わらず、惹きつけられる、目を見張る、息を呑む、感動する、身を乗り出す、関心する、考えさせられる、試される。。。

ネタバレになってしまうので、アバターの話はここまでにして。

幸せとはかなり高次の感情だといえる。
欲望とは次元が違う。

欲望を満たすことが幸せになると勘違いしてはいけない。
金、地位、名誉、時間、ゆとり、希望、健康、自由、愛情・・・・

これら全てを手に入れたからといって幸せにはなれない。

これらが不足していても幸せを感じることができる。
つまり、「自分が強く信じられる大切なもの」があるかないかが重要だと思う。
私はこの行為を許すわけにはいかないが、自爆テロを行う人は、恐らく幸せなんだろうと思う。
自分が信じる大切なものを守るために、命をかける。未来のため、家族のため、友のため、そして自分のため。

自他のためになる、自分が信じる大切なもの。
それを持っているかどうか。

当たり前のことではあるが、日常に追われ忘れてしまっていた。

あなたは今、幸せですか?

スピーカーズコーナー・トウキョウ 2010 『地方からの日本再生』の第1回目を聞いてきました。
「幸せ」を改めて考えることができ、とても良かったです。

講師のお話の後のディスカッションでどなたかお話いたしましたが、
「将来を悲観しているのは気分であり、意思があれば楽観できる」
その通りですね。

さてここで質問です。
「あなたは今、幸せですか?」









「うーん」と考えて答えた方、それは気分の幸福度を測りませんでしたか。

即答した方は、明確な「意思」を持っていると思います。
私は真剣に幸せに向き合っている人は必ず<宗教>に行き当たる、と確信しました。
ここで、<宗教>を定義すると、宗教とは神との関係に限りません。
思想、教え、信じる方向・方法、行動原理、意思決定においてすがる考えとか、民族の思想に通底するもの、です。
その認識があって初めてこうすべきだという「意思」(欲望ではなく)が持てると思います。
だから、<宗教>を認めない人は絶対に幸せになれない、なるはずがない、と言えます。
(私が定義する宗教は<宗教>。いわゆる宗教は「宗教」としてます)
そう考えていたら、重大な問題が浮かび上がりました。
多くの日本人は、仕事ではなく人生において、絶対的な幸せは得られない、ということです。
他人と比較した幸せは得られるでしょうが、確固たる心から湧き上がり体が熱くなって涙が出てくるようなジーンとする幸せは得られないということです。

なぜなら日本人は、「宗教」の名のもとに認識したがらない傾向があるからです。
「宗教」という単語はどうも受け入れたがらないようです。

例えばアメリカは先進国化して個人の部分が大きくはなっていると聞きますが、小さくなっても確固たる教えを持っている人は少なくないのではないでしょうか。
何かあればすがることができる心の拠り所、考えの基準を持っているんじゃないかと思います。

一方日本は他国と比較して、将来を悲観している人、将来に不安を感じている人が多いと聞きます。
それは、信じるもの<宗教>を持っていないからだと思います。
だって、「こうすれば幸せになれる」という<宗教>を認めていれば、将来を悲観するなんてあり得ないですよね。
帰りに、次々回に講演なさる安藤千賀さんと一緒のエレベータに乗りました。
2人きりでしたので、少しお話させていただきました。
やっぱり違いますね。
楽しみにしています。興味のある方はこちら
http://www.jpi.co.jp/seminar/seminarDetail.aspx?SeminarNo=201002000&SearchWord=o01