小山内 裕

コースの定理は逆向きに使う

社内よりも社外で取引した方がコストが安い、ということが多くなった。インターネットの仕業である。

それは企業にどんな影響をもたらしているであろうか。

「ウィキノミクス」
インターネット上の価格や信頼がベンチマークとなり、企業努力はそれと勝負するか、全く別の付加価値を提供する能力が求められるようになった。

「コースの定理」
ある作業を社内ですべきか社外に依頼すべきか、意思決定の要素はシンプルである。
コストの低いほうを採用すべきだとする。
回数の少ない作業は社外で、そうでな場合は規模の経済を追求することになる。
したがって企業規模は大きくする方向へ向かい、コストを低くするのである。
しかし、社外取引コストが圧倒的に低くなった今、「企業は規模を縮小すべき」だという。

人は皆、公平でもないし、平等でもない。だから...

人は皆、公平でも平等でもないことは疑う余地はない。
だけれどもそれは認めたくない、というのが人情だろうか。

私が小学5年生の時、高さ50cmくらいもあるガンプラ(ガンダムのプラモデル)をいくつも買ってもらっている友達がいた。
私はというと、そんな高価なおもちゃを買ってもらえなかった、というか、買ってもらえるとは思ったこともないから欲しいと口にしたこともなかった。

別の友達は、夜遅くにならないと働きに出ている両親が帰ってこないため、いつも1人だった。

また他の友達は、理由はわからないがお父さんがいなくて、お母さんだけだった。

中学の時、私は死に物狂いで勉強しても学年で30番台が精一杯だというのに、家で勉強はほとんどしないというクラスメイトは中間・期末テストでいつも1番だった。

徒競走では、どんなにがんばっても勝てない足の速い友人がいた。

私はなぜか障害競走ではいつも先頭だった。

「わたしたちすべての人間は、生まれながらにしてなんらかの環境的運命を背負っています。青春とは、その運命に対する挑戦であり、自分自身のきびしい開拓の場なのです」
「平和のためのかけ橋に」横田邦子(猪口邦子)1971年度 青年の主張 全国大会にて
(2010年4月7日付け 日本経済新聞朝刊より)

これを読んだとき、なるほど!これなら誰もがやる気になるな、と思った。
家にお金がない、走るのが遅い、がんばっても勉強できない私...
その理由を自分自身(内的)に求めて自らを責めるよりは、「環境的運命」と言い切って、外的要因のせいにしてしまえば随分気が楽になる。

「環境」は外的要因であり、内的要因のようにコントロール不可能であるからだ。

だがこの話はまだ続く。
コントロール不可能な外的要因を克服すべく挑戦することが青春であり、それが自らを成長させるというのである。
外的要因はどうしようもないんだからと諦めない内が青春だとも読み取れる。
そして、青春は成長の機会である、と。