「底辺」生きる価値ないの
被害者の高校生をネット中傷
《被害者が通っていた高校は所謂DQN校です。犯人が通っていた高校は所謂進学校です。被害者は生きている価値がないDQNです》
《犯人の高校の偏差値65なの?これはどう見ても死んだ奴が悪いな》
DQNとは「偏差値が低く、常識がない」ことを意味するインターネット上の蔑称で、「ドキュン」に英字をあてた表記。非常識な素人などが多く出演したテレビ番組の名前から広まった。
今夏、ある男子高校生が、別の高校に通う男子を殺害する事件があった。被害者の生徒と交際していた女子高校生をめぐるトラブルだった。
だが、加害者と被害者の通う高校の偏差値の差が、事件に別の影を落とす。直後からネットの掲示板に、こうした書き込みがあふれていった。
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(2008年12月30日 朝日新聞の朝刊より)ネットの掲示板の書き込みを読んだ、被害者と同じ高校に通う学生の心の苦痛が書かれていました。
「めっちゃ悔しい!なんでこんなこと言われなきゃいけないの!」
「偏差値が人の命の価値まで決めてしまうってどういうこと」
まず、「偏差値」とは何でしょうか。
「偏差値」は、学力の一部を測る物差し」といえます。
「学力の一部」としたわけは、「学力」には測定が可能なものと、不可能なものがあるからです。
わかりやすいところで言えば、四則演算ができるかできないかは測定可能です。
音楽の演奏や美術で描く絵など芸術的なものは測定不可能です。
「偏差値」は測定可能な学力に焦点を絞って算出されます。
そういうことから偏差値には学力の一部しか反映されていません。
体育でのマラソンのタイムも測定可能ですが、それは偏差値の要素に入っていません。
ほとんどの学校の入試試験にマラソンがないからでしょう。
そうするとつまり、「偏差値は、多くの学校の入試試験科目に対応した、学力の一部を測る物差し」ということですね。
偏差値について正しく理解している人にとっては回りくどかったと思いますが、違う理解をしている人が少なくないようです。
「偏差値は、人の価値を測るものさし」と口には出さずとも、心のどこかでそう思っている人がいるのは事実でしょう。
これまでの会社までもが学歴偏重であった事実を見れば、仕方がないと思いますが、「偏差値」だけで世の中を理解しようとしているとすれば、のっぺりとした凹凸のない世界しか見えていないんだろうと思います。
海外からの留学生に「へー、で、君の大学の偏差値はどのくらいなの?」なんて聞く人もいるらしい。
実際の世の中には、さまざまな「ものさし」を持った人が存在します。
良いものさしと悪いものさしがあります。
それらを見抜くには、いろんな種類のものさしが必要です。それぞれのものさしを磨いておく必要もあります。
世界の中の日本、日本人としてこれから活躍することを念頭に、柔軟なものさしも必要でしょう。
「偏差値」というものさししか持たない学生も、これからさまざまな人々との出会いを通じ、多種多様なものさしの存在を知り、いかに無知であったか、きっと学ぶこととなるでしょう。
最後に、新聞記事の見出し『「底辺」生きる価値ないの』の「底辺」が非常に気に入らない。
『無知な偏差値偏重主義』とか、『学歴偏重の歪み』とか、『学歴偏重が産み出す差別』とかできなかったかな。