2009年 12月 の投稿一覧

生きている価値のある人とない人

「底辺」生きる価値ないの

被害者の高校生をネット中傷
《被害者が通っていた高校は所謂DQN校です。犯人が通っていた高校は所謂進学校です。被害者は生きている価値がないDQNです》
《犯人の高校の偏差値65なの?これはどう見ても死んだ奴が悪いな》
DQNとは「偏差値が低く、常識がない」ことを意味するインターネット上の蔑称で、「ドキュン」に英字をあてた表記。非常識な素人などが多く出演したテレビ番組の名前から広まった。
今夏、ある男子高校生が、別の高校に通う男子を殺害する事件があった。被害者の生徒と交際していた女子高校生をめぐるトラブルだった。
だが、加害者と被害者の通う高校の偏差値の差が、事件に別の影を落とす。直後からネットの掲示板に、こうした書き込みがあふれていった。
・・・
(2008年12月30日 朝日新聞の朝刊より)

ネットの掲示板の書き込みを読んだ、被害者と同じ高校に通う学生の心の苦痛が書かれていました。
「めっちゃ悔しい!なんでこんなこと言われなきゃいけないの!」
「偏差値が人の命の価値まで決めてしまうってどういうこと」

 

まず、「偏差値」とは何でしょうか。

「偏差値」は、学力の一部を測る物差し」といえます。

「学力の一部」としたわけは、「学力」には測定が可能なものと、不可能なものがあるからです。

わかりやすいところで言えば、四則演算ができるかできないかは測定可能です。

音楽の演奏や美術で描く絵など芸術的なものは測定不可能です。

「偏差値」は測定可能な学力に焦点を絞って算出されます。

そういうことから偏差値には学力の一部しか反映されていません。

体育でのマラソンのタイムも測定可能ですが、それは偏差値の要素に入っていません。

ほとんどの学校の入試試験にマラソンがないからでしょう。

そうするとつまり、「偏差値は、多くの学校の入試試験科目に対応した、学力の一部を測る物差し」ということですね。

偏差値について正しく理解している人にとっては回りくどかったと思いますが、違う理解をしている人が少なくないようです。

「偏差値は、人の価値を測るものさし」と口には出さずとも、心のどこかでそう思っている人がいるのは事実でしょう。

これまでの会社までもが学歴偏重であった事実を見れば、仕方がないと思いますが、「偏差値」だけで世の中を理解しようとしているとすれば、のっぺりとした凹凸のない世界しか見えていないんだろうと思います。

海外からの留学生に「へー、で、君の大学の偏差値はどのくらいなの?」なんて聞く人もいるらしい。
実際の世の中には、さまざまな「ものさし」を持った人が存在します。

良いものさしと悪いものさしがあります。

それらを見抜くには、いろんな種類のものさしが必要です。それぞれのものさしを磨いておく必要もあります。

世界の中の日本、日本人としてこれから活躍することを念頭に、柔軟なものさしも必要でしょう。

「偏差値」というものさししか持たない学生も、これからさまざまな人々との出会いを通じ、多種多様なものさしの存在を知り、いかに無知であったか、きっと学ぶこととなるでしょう。
最後に、新聞記事の見出し『「底辺」生きる価値ないの』の「底辺」が非常に気に入らない。

『無知な偏差値偏重主義』とか、『学歴偏重の歪み』とか、『学歴偏重が産み出す差別』とかできなかったかな。

損切りと利益確定

あれは城山三郎の作品だったと思う。

ある投資家の話。
ある年の暮れ、投資はめちゃくちゃマイナス、先物で買い取った小豆の山、という状況でとても不機嫌だった。

しかし、年が明けると、それまでの不機嫌が嘘のように機嫌が良い。

なぜかと聞くと、「これまでのマイナスがゼロになったから」という。

ただし、何か別の投資で稼いだというわけではない。
マイナスだった成績は、昨年のこと。昨年1年間の帳簿は締め、また新たな年が始まったからゼロからのスタートというわけだ。

年の初めは、サンクしてしまったことは置いておいて、心新たに投資を始めるのである。
まもなくやってくる1年の終わりと始まり。

まさに、これと似ている。

人生は生まれて死ぬまでが一区切りだが、途中を1年間、半年、3ヶ月、と勝手に区切りをつけているからやっていけるようなものである。

年が明けたら、前年の損は忘れ、当年はプラスを目指す。

年が明けたら、前年の得は確定して、また当年のプラスを目指す。
前年のマイナスを当年で取り返そうとするよりも、プラスを作り上げるようとする方が楽しい。

と私は思う。

リーダーシップの条件-鳩山首相は?

普天間の基地移設が話題になっている。

もっとも気がかりなことは、
・日米関係悪化による国益のマイナスが及ぶこと。
・鳩山首相のリーダーシップどころかビジョンの欠如。
の2点である。

今朝の日経新聞に、フィリピンでの米軍撤退の事例が紹介されていた。
1986年、親米マルコス政権からアキノ大統領が政権を取った後、対米関係が悪化。
それまで100年近くフィリピンに駐留していた米軍は、国外最大の軍事施設であったが、91年に撤収を決め、94年に完了した。
その後、中国が軍事力の空白を突いて、帰属が不明確だった南沙、西沙などの島々に次々と部隊を送って実効支配した。
慌てたフィリピンは米軍の呼び戻しに動いたが、米側は応じなかったという。

日米合意があるとする米側の立場に反して、「今は結論を出さないことを決めた」という日本。
「trust me」(俺に任せろ、信用しろ)とオバマに語った鳩山首相の態度急変が明らかになった。

鳩山首相にとって大切なのは、オバマ大統領との関係よりも、国内との関係であるというところまではわかる。
しかし、国内の中で、福島さんと国民のどちらが大切なのか、という点については不信感が残る。
なぜなら、当初、鳩山首相は普天間移設は当初計画通り進めることで問題ないと判断していたわけだ。それはもちろん、国民のことを考えた上での判断だったと信じたい。だから、オバマ大統領の目を見て「trust me」と言えた。

だが、福島さんが連立離脱をほのめかすと、とたんに態度が急変。国民あっての民主党ではなく、福島さんあっての民主党というわけだろうか。
さて、今日は、普天間移設の良し悪しよりも、首相としてのリーダーシップを問いたい。
というよりも、そもそも、日本の首相は、リーダーシップを発揮できない構造の中にいるんじゃないだろうか、と改めて思う。

そしてこれは、日本の政治特有のことではなく、民間の企業でも起こっていないだろうか。

会社の方針と、自らが抱く方針が一致せず、納得できない。だから、会社を辞める、仕事の手を抜く、言われたことしかやらない、何もしない。そんなことが会社の中で起こっていないだろうか。

福島さんの行動はこれと似ている。

私がサラリーマンだったとき、組織の方針と、私が責任を負うパートの要求が明らかに異なることがあった。意見はしたが、一度決まったら、組織の方針に基づいて最善を尽くすよう、努力した経験がある。部下たちからすれば、それまでの私の言葉と異なる行動であったわけだから、疑問も持たれたが、そこはすべてを説明して理解を得た。
結果は、方針だけで決まらない。外部環境と実行する人の要因もある。言い換えると、すばらしい方針も、環境に適さず、実行できる人がいなければファントム(幻想)にすぎないというわけだ。

鳩山首相は、強く信じるビジョンがあるなら、その実現にすべてを注がなければ、成果は出せないと思う。それがリーダーではないだろうか。

明確なビジョンを持つリーダーは、ビジョン実現のために犠牲も払う。そのくらいすばらしいビジョンだと信じているからだ。持っているビジョンが怪しいと、自信をもって肉を切らせることなどできないのではないだろうか。

私が大学の学部で学んだあるリーダーシップの条件の1つ。
「あの人は私たちのリーダーである」と認識されていること。
これが欠けているのではないだろうか、これはリーダーとフォロワーの責任である。

フォロワーとは、鳩山首相が日本のリーダーならば、私を含む国民全員であることは言うまでもない。

個人的経験に頼るほど危険な時代、意思決定の拠り所はどこ?

そうなんです。経験は必ずしも役に立つとは限らないんですよね。

MBA推薦図書館に新しいページ を追加しながら考えました。

次に来る展開が、経験したケースと同じであれば、経験はとても役に立ちます。

でも、そうでなければ、経験が邪魔をすることになってしまいます。

テンポがゆったりとしたもので、変化が少なかった時は、経験を頼りにできましたから、経験を積めば積むほど結果もともなっていました。

しかし、今は、環境が変化が激しく、予測困難な時代といわれます。

変化どころか変質さえしてしまうことも珍しくありません。
その場合には、個人の経験則に頼るよりも、より幅広い経験則を参考にした方が良いといえます。

個人の経験を超えたもの、つまり他の人の経験です。

さらに、上下左右、斜め横、前後ろ・・・自由自在に身を触れるようにしておくためには、原理原則に立ち返って、下手な予想の元に行動しないことがベターでしょう。

その意味で、経営者としての心の拠り所としてのこれらの書籍 は、必ずやヒントを与えてくれるでしょう。

ついつい、全部買ってしまいそうになりましたが、今日は「創造する経営者 (ドラッカー)」だけにしておきました。

ちなみに、戦略を語るなら孫子は必読書です。私も「孫子の兵法」は持っていますが、深く為になります。