小山内 裕

意思決定なきミーティングこそ、必要

今日、ある人と2時間20分の話し合い、ミーティングを持った。
話題の80%はいつも話す内容と同じで、最終的にお互い何をすべきか、具体的なことは決めなかった。
具体的な決め事とは、いわゆる5W1H。誰が(Who)、何を(What)、いつまでに(When)、どこで(Where)、どのように(How) 行うのか。
意思決定をしなかった、ということである。

2時間以上も話合って、何ら意思決定がされなかったのには理由がある。
それは、マイルストーンがないからである。

既に方向性は1年以上前から共有されており、その線上で粛々と進められているのだが、基準となるマイルストーンがないのである。
マイルストーンとは、道に点在する一里塚。長期目標を達成するための短期目標のことである。
例えれば、現在アメリカの西海岸にあるサンフランシスコにいて、東海岸にあるニューヨークまで行こう、とは決めているが、どのルートで行くのか、いつまでにゴールするのか、交通手段はどうするのかなど、一切決めずに歩き出しているのと同じである。
だから、毎回何かに出くわす度に、「さぁ、どこへどのルートで行こうか」と白紙から話し合うのである。
話し合う度に、過去・現在の状況、目標とする未来像を確認し、何をすべきか出し合うのである。
過去の状況と将来像に変わりはないから、当然、話し合いを重ねれば重ねるほど、ほとんどが以前に話し合ったことと同じになる。
実際、一語一句違わないセリフが幾度となく登場するのである。「イザとなれば、あれをやる」と。
聞く度に「またその話か」と思ってしまう。

恐らくほとんどの人が「こんな非効率的なことはない」と思うだろう。
全くその通りである。

目標とする将来像、言い換えればビジネスのビジョンであるが、これはそうコロコロ変わるものではない。
ビジョンを達成するための戦略と戦術も、リソース(ヒト・モノ・カネ)が限られているから、選択肢はほとんどない。
あとは進むだけ、という状況である。
と、すれば、なおさら、マイルストーンの重要性が高まる。

それなにのになぜマイルストーンがないのか。
意思決定を嫌う体質が見え隠れする。
「その時になって見なければわからない」ということである。
私は、意思決定をし、定期的に見直す、というプロセスの積み重ねが効率的・効果的な前進をもたらすと考える。
だからマイルストーンは絶対的なものではなく、その時々で見直し、必要に応じて変更すればいいと思うのだが、そうは行かないのである。
「期日を決めてできるものではない」というのである。

つまり、ビジネスの進め方について、サイエンス(科学)よりもアート(芸術)を重視しているのである。
いつ起こるのかわからないが、神が降りてくるのを待つようなやり方である。
だから、マイルストーンを決めるなんて愚の骨頂というのである。

さて、この毎回繰り広げられる2時間に及ぶミーティングの目的とは何なのか。
少なくとも意思決定ではないことはここまで書いたとおりである。
その目的は「不安払拭」なのである。
・共有するビジョンの確認をする。
・イザという時の奥の手の確認をする。
・過去の成功から満足感を得る。もう十分やったと自らを納得させる。
・まだ手詰まりではない、打つべき手が、まだ、とにかくたくさんあることを確認する。

そういったことで、不安を打ち消そうとすることなのである。
また、話すだけで気が楽になるという効果もある。

だから、悲観的な話はすべきではない。
楽観的な話に終始すれば、短時間で終わる「話し合い」なのである。

もちろん、マイルストーンを決めることは重要なことである。
だが、不安と悲観しかない中では、何の効用も見込めない。

まずは、不安を拭い去り、楽観させ、遠くの光を見せることが肝心なのである。
それから、光へ到達するためのルート、マイルストーンを作り出すことが力を引き出すコツといえる。

世界の中でも優秀だと言われる日本人だが、悲観論がはびこり、株式市場は震源地アメリカよりも落ち込んだまま。
その背景には不安を払拭する作業が不足しているのかもしれない。

成長への鍵 眠る力引き出す

「成長へ 眠る力引き出す」-これは、2010年1月1日 日経新聞朝刊の1面の見出しです。

高齢化社会については世界の先を行く日本。
社会保障が足かせとなり、衰退していくのかどうかの岐路に立っていることは間違いないでしょう。

追随する諸外国の手本となるか、反面教師となるか、注目が集まっています。

日本がここで飛躍するためには、働き手の多様性に期待したいですね。
特に、高齢者や出産後の女性など、優秀な人材が活用しきれていない面があります。

日経新聞では70歳を超えても元気な方々が紹介されていましたが、私の周りにもたくさんいらっしゃいます。
夜遅くに電車で片道1時間ほどかけて忘年会に参加された方、日帰りでスキーに行かれた方、などなど。
体も元気だし、頭の回転も早い。

しかしながら、現実問題として、高齢者の転職、ビジネスマッチングは困難をともなうようです。
実際、これまで当社の採用面接に来られた方々は、自分の仕事のやり方を変えることができませんでした。また、新しいことを始めることはできても、ビジネスのスピードについてこられないこともありました。
一方で、これまで自分が経験してきたやり方で同じ職務内容であれば、きっと力を存分に発揮するんだろうな、とは思いました。

と、すれば、会社で高齢者を抱え込むよりも、その人に合った仕事をアウトソースする方がお互い happy かもしれません。
具体的に、何をどういうやり方でやるのか、できるのか、description(職務明細)が書かれていれば、仕事を依頼する方にとって便利です。
また、成熟した技術が求められる場面でも活用できるでしょう。

同じく日経新聞に、5年で売上高が8.5倍の3億円に伸びた、定年後のシニアを派遣する会社が紹介されていて、納得しました。

個々人の人生において蓄積されたノウハウの上に新しいノウハウが乗っかるからこそ、発展があります。

皆がゼロからノウハウを積み上げようとすることの重要性は否定しませんが、無駄な時間がかかってしまうという一面があることは事実です。

うまく高齢者のノウハウを利用する方法を創り出すことが、日本の成長に欠かせない、と思います。

新年の抱負-攻めは最大の防御なり

新年、あけましておめでとうございます。

今年は寅年。トラのように積極的に挑んでいきたいと思います。
いろいろな人を見ていつも思うことは、やはり、「チャレンジし続ける人には勝てないなー」ということです。

そういう人は、

「自分にはそんな能力はない」とか、

「精一杯やってるんだからこれ以上はできない」

とは決して言わないですね。

やって成果が出そうなことがあれば「そうか、そうか」と言いながら着実に歩を進めていきます。

全ての事柄が万事うまくいくわけではありません。

10あるプロジェクトの内、1つでもうまく行けばしめたもの。

その1つを手にするために前進します。

その1つを手にしたからといって、挑戦する姿勢に変わりがありません。

引き続き次の果実を目指し挑戦し続けます.....
そんな人に私は勝てません、というか勝負を挑んだら一番怖い相手です。

「戦わずして勝つ」には、私も挑戦を続けること、です。

ということで、今年の抱負は、「挑戦」です。

生きている価値のある人とない人

「底辺」生きる価値ないの

被害者の高校生をネット中傷
《被害者が通っていた高校は所謂DQN校です。犯人が通っていた高校は所謂進学校です。被害者は生きている価値がないDQNです》
《犯人の高校の偏差値65なの?これはどう見ても死んだ奴が悪いな》
DQNとは「偏差値が低く、常識がない」ことを意味するインターネット上の蔑称で、「ドキュン」に英字をあてた表記。非常識な素人などが多く出演したテレビ番組の名前から広まった。
今夏、ある男子高校生が、別の高校に通う男子を殺害する事件があった。被害者の生徒と交際していた女子高校生をめぐるトラブルだった。
だが、加害者と被害者の通う高校の偏差値の差が、事件に別の影を落とす。直後からネットの掲示板に、こうした書き込みがあふれていった。
・・・
(2008年12月30日 朝日新聞の朝刊より)

ネットの掲示板の書き込みを読んだ、被害者と同じ高校に通う学生の心の苦痛が書かれていました。
「めっちゃ悔しい!なんでこんなこと言われなきゃいけないの!」
「偏差値が人の命の価値まで決めてしまうってどういうこと」

 

まず、「偏差値」とは何でしょうか。

「偏差値」は、学力の一部を測る物差し」といえます。

「学力の一部」としたわけは、「学力」には測定が可能なものと、不可能なものがあるからです。

わかりやすいところで言えば、四則演算ができるかできないかは測定可能です。

音楽の演奏や美術で描く絵など芸術的なものは測定不可能です。

「偏差値」は測定可能な学力に焦点を絞って算出されます。

そういうことから偏差値には学力の一部しか反映されていません。

体育でのマラソンのタイムも測定可能ですが、それは偏差値の要素に入っていません。

ほとんどの学校の入試試験にマラソンがないからでしょう。

そうするとつまり、「偏差値は、多くの学校の入試試験科目に対応した、学力の一部を測る物差し」ということですね。

偏差値について正しく理解している人にとっては回りくどかったと思いますが、違う理解をしている人が少なくないようです。

「偏差値は、人の価値を測るものさし」と口には出さずとも、心のどこかでそう思っている人がいるのは事実でしょう。

これまでの会社までもが学歴偏重であった事実を見れば、仕方がないと思いますが、「偏差値」だけで世の中を理解しようとしているとすれば、のっぺりとした凹凸のない世界しか見えていないんだろうと思います。

海外からの留学生に「へー、で、君の大学の偏差値はどのくらいなの?」なんて聞く人もいるらしい。
実際の世の中には、さまざまな「ものさし」を持った人が存在します。

良いものさしと悪いものさしがあります。

それらを見抜くには、いろんな種類のものさしが必要です。それぞれのものさしを磨いておく必要もあります。

世界の中の日本、日本人としてこれから活躍することを念頭に、柔軟なものさしも必要でしょう。

「偏差値」というものさししか持たない学生も、これからさまざまな人々との出会いを通じ、多種多様なものさしの存在を知り、いかに無知であったか、きっと学ぶこととなるでしょう。
最後に、新聞記事の見出し『「底辺」生きる価値ないの』の「底辺」が非常に気に入らない。

『無知な偏差値偏重主義』とか、『学歴偏重の歪み』とか、『学歴偏重が産み出す差別』とかできなかったかな。