Human Resources (人材)

リーダーは人をまとめ、引っ張っていかなければならない、という誤解

昨日あるチームのリーダーが休んだ。別チームへ異動したFさんが引継ぎのためまだそこにいたのだが、冗談半分で
「(昨日休んだリーダーが)今日も休んだら君がリーダーをやれ。異動は取り消す。」
と私が話すと、Fさんは、
「僕にはリーダーはできません。みんなをまとめられません。」
と言った。

私はそれは奢った考えではないだろうか、とFさんに問いかけた。
リーダーはメンバーをまとめようとか、引っ張っていこうとしなければならないのだろうか。

世の中にはリーダーと呼ばれる人たちがたくさんいる。
そういうと真っ先に思い浮かべるのは、書籍で紹介されたり、メディアに取り上げられたりしている偉大なリーダーたちであろう。
最初は1人でも、理念に共感する者たちを集め、次第に大きな組織を作り上げ、世の中に広く受け入れられるに至る・・・のような。
しかし、それは世の中のリーダー像を代表していない。
手本としたい、目指したいリーダーたちだろうが、私たちの身近な多くのリーダーではない。
そして結果を出しているのは、偉大なリーダーだけではない。私たちの身近なリーダーたちも結果を出している。
必ずしも結果は偉大である必要はない。一定の結果を出せればリーダーとして十分である。

私たちは偉大なリーダーではない。身近なリーダーだ。
そんなリーダーも、メンバーをまとめようとか、引っ張っていこうとしなければならないのだろうか。
私はそうは思わない。リーダーとしての仕事の1つに数えられるかもしれないが、必須ではない。
Fさんは無意識のうちに偉大なリーダーをまねようとして、あたかもリーダーはそうしなければならないと考えていたのだろう。

Fさんに尋ねると、北風と太陽の話しを知らないというので簡単に話してあげた。

コートを着込んだ旅人が歩いていた。
それを見た北風と太陽が、どちらがコートを脱がせられるか、力比べをしようということになった。
北風は旅人のコートをはぎ飛ばしてやろうと強い風を吹き続けた。
旅人はコートを飛ばされまいと、グッとコートの襟元を握りしめ、強風に耐え続けた。
次は太陽の番。
太陽は暖かい日差しを旅人に投げかけた。
旅人は汗をかき始め、自らコートを脱いだ。
力ずくで思い通りにさせようとした北風が敗れ、温かく見守っていた太陽が勝利したという話である。

リーダーシップとは、「人に影響を及ぼし、(リーダーにとって)望ましい方向の行動をとらせること」である。
北風と太陽の例では、コートを脱がせることが「望ましい方向の行動」であった。
人は、強風よりも温暖を望み、リーダーの期待する行動をとるというのである。

組織にリーダーは必要である。だがリーダー全員がメンバーをまとめたり、引っ張っていけるものではない。
リーダーはメンバーをまとめようとしたり、引っ張っていこうとしなくとも結果は出せる。
リーダーとは先導者。引っ張る牽引者ではないし、まとめる統制者でもない。
何をどうすればいいのか背中を見せるだけでもいいのである。

WEBエンジニアの誤解「スキルを高めれば収入が上がる」

「良いものが売れるとは限らない」—よく言われることである。
90年代のバブル崩壊後、メイド イン ジャパンは技術力も品質も高いのに売れない、売り方が下手だとよく言われた。
それは、コンテンツばかりをアピールして、コンテクストを創り出し伝える力が弱いことが原因とされた。

たとえば、キーコーヒーはコーヒーを売っているが、スターバックスが売っているのはコーヒーではない。

スタバが売っているのは家、職場に次ぐ「第3の場所」である。またはそこから派生するくつろぎや豊かさである。
だからスタバではコーヒーを必死に売り込んでいるパートナー(スタバで働く人すべてをパートナーと呼ぶ)はいない。
コーヒーについての知識やドリップの技術はあって当たり前であり、客様にリッチな時間を提供することが評価されるのである。

WEBエンジニアも同じである。
スキルを高め、経験を積めば自動的に年収が上がる、ということはない。
エンジニアなんだからスキルがあって当たり前。所属する組織が求めていることを成し遂げて初めて評価の対象となる。
つまり、組織が売っているものを理解せずして高い評価と収入は得られないのである。

組織が売っているものは、必ずしも誰もがわかる形になっているとは限らない。
日々変化する事業環境の中で創り出され、徐々に変化していく場合もある。
周囲をよく観察し、トップの言葉に耳を傾け、自分なりの感性で理解し、そして売ったという実績が評価につながる。

ところで、ブックルックチームが売っているのは「ITサービス」である。
ITとは言うまでもないが、Information Technology=情報技術である。コンピュータやプログラムの技術ではない。
ITとは情報に意味づけする技術であり、コンピュータやプログラムはそのためのツールである。
仕様書通りにシステム開発をするだけでは高い評価につながらない。
ユーザーの事業や要求を深く理解し、仕様を作り、形にできる人を最も高く評価している。

最後に、技術(サイエンス)は時間とともに陳腐化する性質を持っている。
誰もが真似でき、代替する別の技術がどんどん生まれてくるからである。
一方、アートはオンリー ワンである。
サイエンスだけでなく、アートをどれほど織り込めるかがまた評価を大きく左右する。

プロフェッショナルとは「やりたい、やれる、望まれる」人

プロフェッショナルと一緒に仕事をすると、脳内物質ドーパミンがどんどん出てくる。
まさに「スゲー!」と興奮する。物凄い達成感を味わえる。
そしてまた快楽を得るために仕事をしたくなる。

私はそのように仕事をし続けたいと思っている。
そこで「プロフェッショナルとは何か」という質問をチームメンバーにも投げかける。

プロフェッショナルとは、「やりたい、やれる、望まれる」人だ。
やりたい仕事があり、それをやれる能力があり、他人からその仕事をやって欲しいと望まれる人だ。

私のブログの中で最もアクセスの多い記事がある。
それは「仕事が空回りするとき」。
たくさんの人がgoogleから「仕事 空回り」で検索してやってくる。
本人や一緒に働いている人のことで悩んでいる、あるいは困っているんだな、と思う。

実は、「やりたい、やれる、望まれる」とは、表現が違うが「仕事が空回りするとき」で書いた内容と同じである。
それは「やりたいこと、やれること、やらなければならないこと」であり、この3つの重なりが小さい人が空回りしているのである、というもの。
空回りしているうちはどんなに優秀な人でもプロフェッショナルからはほど遠い。

「やりたい、やれる」まで届いている人は割といる。たぶん全体の6割。扱いに困る「やりたくないけど、やれる」という意欲のない人もこの中に含む。

けれど、最後の「望まれる」まで満たしている人は2割だろう。
「ものすごーく望まれる」ところまで達している人は、全体の5%よりも少ない。2%未満ではないだろうか。

就職面接や社内での自己評価を聞くと「私はやれる=100点」を基準に採点する人がほとんどではないかと思う。
プロフェッショナルとしては、「私は意欲的にやる気があり、それに応じたスキルがある、さらにお客様からやって欲しいと望まれている=100点」を基準に自己採点する人は、プロフェッショナルの指向性が非常に高いと思う。

今回このテーマでブログを書こうと思った出来事が立て続けにあった。

1つ目は、採用面接でのことである。
自分のやりたいことだけを話す人がいた。明らかにやれるレベルではないのに。
だから、「やりたいことは分かった。だけどできない内からその仕事を任せることはできない。その内スキルアップしてできるようになったらお願いするかもしれない。さて、今、別の仕事がある。」と話した。
「やりたい、けど、やれない、だから望まれない」状態である。
最初はやりたいものではなくても、コツコツと目の前にある仕事に取り組んだら、きっとすごく成長すると思える人だっただけにもったいないと思った。

2つ目は、ITシステムを理解したいと思い、プログラムを勉強したらプログラミングできるようになり、その内ITグループのリーダーをやって欲しいと言われその職に就いたという人の話を聞いたことである。
本業の傍ら自分でコツコツと勉強したとのこと。やれるようになったんだからもともと才能があったのだろう。
でも、プログラムを書ける人は他にもただろうに、また本人は「プログラムはちょっと書けるだけだ」と話していたので、ITグループのリーダーをやって欲しいと望まれたのには、別の要素もあったに違いない。

3つ目は、多摩大学大学院 田坂先生の『「やりたい仕事」を引き寄せる人生の法則』を目にしたことである。

私がこれまでに出会ったプロフェッショナルそのものである。
仕事の研究をし、仕事の意味を考え、仕事の彼方を見つめている。
「望まれる」人はこういう人だ。

本当に彼らは地味で単調な作業を厭わない。
スキルがあるからと言って「俺はもっと生産性の高い仕事だけをやりたい、やるべきだ」というところからはスタートしない。
必要があれば、単調な仕事を何時間でも面倒くさがらずに、当たり前にやるのである。
手順書を作れば未経験の人でもできるような作業でも、目的達成のために自分でやり遂げるのである。
例えばデータ量の多いデータベースで、チューニングのためにインデックスの再作成をすることがある。
インデックスの再作成中はパフォーマンスが落ちるので、利用者のいない夜の時間に行う。
100個以上あるテーブルを1つ1つ順番に作業を進める。
あらかじめスクリプトを書いて準備しておくので、その作業のほとんどは待時間になる。
それでもこの単調な、誰でもできそうな作業を慎重にやるのである。
間違いなく予定通りに進む保証がなく、少しの狂いが大きな悪影響を及ぼすことも想定しているからである。

これがもう1つ、プロフェッショナルの条件である。
絶対にミスを犯さないことである。
約束したことは必ず、完璧にやり遂げるのである。
ゴルゴ13の世界である。
ミスをしているうちはプロフェッショナルではない、と言いたいところだが、人は誰もが間違える。
慎重には慎重を重ね、ミスをしないための手間と時間を惜しまないことである。
ミスをするにも内的要因と外的要因があるだろう。
内的要因は自分の努力で払拭できる。外的要因は可能な限りの予知と不測の事態を想定して目を光らせておくしかないだろう。
つまりは、コツコツと地道な作業を行い、ミスを犯さないために細心の注意を払う。そこには「俺はできる」という慢心はない。
そしてそれがまた成長につながる。

プロフェッショナルは「やりたい、やれる、望まれる」人である。
望まれる人は、仕事を研究し、仕事の意味を考え、仕事の彼方を見つめている。
ミスは絶対に犯さないから安心して任せられる。

プロフェッショナルであり続けるためにも、私は自分自信を毎日見直す。

グローバル人材と認められるにはTOEICは何点必要か

2年前から、小学5・6年生で年間35時間の外国語活動が必修化されています。
これがグローバル人材の育成にどうつながるのか大変興味があります。
なぜなら、35時間ですから、ほぼ1週間英語漬けの時間を過ごせます。

私の初めての海外旅行は、ロスとサンフランシスコです。期間は1週間くらい、1人で行きました。
事前の下調べも計画もなかったので、毎日行く先々で誰かとコミュニケーションを取りながらあちこち行きました。
この経験を通して、自分の無知を知り、開発しなければならないことも明らかになりました。
これが私のグローバル開発の始まりでした。

そして、勤めていた会社が米国資本で、当時は国籍や文化が異なる強烈な人材が多くおりましたので、かなり鍛えられました。
おかげでキャリア開発を継続的に意識しながら進めることができました。

さて、グローバル人材と認められるにはTOEICは何点必要かということですが、何点でもよくて、むしろソコじゃないと思っています。
広い視野で、決してあきらめない、臆することなく挑戦し、枠にはまらない努力と工夫を続けられる人がグローバル人材に適しているのではないかと思います。

新潟県立大学学長の猪口孝氏が日経新聞でうまく説明しています。
グローバル人材とは1つ2つの能力ではなく、地球を全部見渡すような広い視野を持ち、あらゆる事態に対応できる全天候型人材である。
体力と胆力、そして企画力と突破力。さらにそれを支える知力と表現力。魑魅魍魎の世界に動じない肝っ玉のある人とのことです。

猪口氏も、米国に留学中は表現が稚拙で嘲笑され、教師になってからは国際会議で意地悪く執拗にせめられ往生し、それが自分の弱いところを知るきっかけになったそうです。そういった窮地に追い込まれて乗り越える経験が、全天候型の人材を生む、とおっしゃっています。

確かにそうだと思います。
真のグローバル人材の強みは、チャンスがあれば軽々と国境さえも越えて活躍の場を創り出すことだと思います。

実は、今私がお世話になっているお客様の環境はまさに、グローバル人材として自己開発するにはうってつけ。
引き続きグローバル観を持ちながらキャリア開発を進めていきたいと思います。