2006年 4月 の投稿一覧

自分の中のリミッター

いいものを見つけました。

田坂先生は私が通う大学院の教授です。
田坂先生の講義では遅刻早退欠席は一切認められません。毎週レポート提出があります。3時間の講義中は休憩時間はありませんし、飲食は厳禁です。私は仕事上、毎回遅刻早退欠席しないという約束できないということと、厳しそうだという理由で履修しておりません。
しかし、田坂先生のサイトにある「風の便り」を読みまして、私の思い込みによる認識を改めました。

できない理由は誰でも考えつきます。不可能を可能にすることは誰でもできることではありません。
せっかくすばらしい先生の講義を受けられるチャンスがあるのだから、そのチャンスを利用しない手はないと思いました。
来年は、会社の上司部下に今年のうちからネゴなどして出席できるようにがんばろうと思いました。

さて、「いいもの」です。
私はこれを友人知人仲間に紹介しました。それぞれのコンテクストで読むと、心に入って出てくるものが異なるようです。


田坂広志 風の便り 第183便

頂上をめざす友

若き日に、登山をしていました。

ある夏の日、友人と計画を立て、
ある山の頂をめざし、
互いに別の山道から登ることにしました。

暑い夏の日差しの中、蝉の声を聞きながら、
足場の悪い山道を登り始めると、
まもなく、全身から汗が流れ始めます。

その暑さの中、重い荷物を背負い、
一歩一歩、足を踏みしめながら、
急な山道を登っていきました。

ときおり、荷物を降ろして休み、
汗をぬぐいながら森の彼方を眺めると、
別な山道を登ってくる友人の姿が
心に浮かんできます。

彼も、いま、この厳しい山道を
重い荷物を背負って、登ってくる。

その友人の姿が心に浮かぶと、
また、登り始める力が湧いてくるのでした。

その日の夕方近く、
少し早く山頂に辿り着いた自分が休んでいると、
遠くの稜線に、別の山道を登ってきた友人の姿が、
現れました。

その山頂で、二人で眺めた夕日が、
いまも、心に残っています。

そして、なぜか、
その遠い夏の日の想い出は、
いま、仕事の世界を歩んでいる
友人たちの姿と重なるのです。

若き日に、理想や志を語り合った友人たち。
彼らも、いま、
若き日に見上げた山の頂をめざし、登り続けている。

その数十年の歳月をかけた登山において、
我々の心を支えてくれるのは、
ただ一つの言葉。
いつか、山頂で再会。

(「田坂広志 公式サイト「未来からの風フォーラム」 http://hiroshitasaka.jp/ より)

人の「知」を生かしてこその成長

今日も感動しました!やっぱりこれは先生方に情熱があるからでしょうね。
今日のMBAクラスは紺野先生のknowledge Based Management。

正直今日はもうかなり疲れていました。昼も休むことができずに働き尽くしでしたから。クラスの部屋に入って席についたとき、今日はちょっと流していこうかな、と考えていました。
でも徐々に話題に引き込まれていきそして見つけたのです。

雇用形態、年齢などにとらわれることなく人の「知」を活用することが企業を成長させると。

SECIモデルをセブンイレブンの事例に照らして確認しました。
セブンイレブンでは、機会損失は悪であると。せっかくお客様が店舗まで来られたのに買いたい商品がおいていなかったというのは何事だ、と。
では各店舗の商品を、誰が、いつ、何を、いくつ仕入れるのか?

そこで観察してみると商品の補充にSECIモデルが当てはまる。
例えば、パートのおばちゃんが「明日そばの小学校で運動会があるからお弁当は多めにしよう」と仲間に相談したり、近似する店舗のデータを参考にしたりして数を決める。これは「運動会がある」という暗黙知を仲間と共有して、話題にすることで表面化し、知を連結して結論を導き出し発注する。そしてその結果が正しかったのかどうか、今後はどうすればいいのかと、相談しあった仲間に内面化される、というもの。

また、お菓子は女子高生の方が「知」をたくさんもっているだろうから発注する数量はある女子高生に全部任せてしまう。そうするとその女子高生は学校に行ってお菓子の話をしてそれぞれの「知」から、このお菓子が売れそうだとか仮説を店舗にもってくる。そこでやはり店舗の仲間と相談して発注する。
その女子高生は次にお客をよく観察するようになる。ここにくるお客は何を一番求めているのだろうか、と。そしてお客のwantsをneedsに変える。

ここで期待されているのは、そこで働くみんなのコンテクストだ。コンテクストは同じ物を見ても人、場所、時間が異なればそれも変わる。そしてそこからイノベーションが生まれる。
同じことは決して他社には真似はできない。

んー、跳躍してて伝わらないかな。。。

ユニークに満たすニーズ (by 嶋口先生)

今日は嶋口先生の戦略的マーケティングでひとつ気づきがあった。

日清食品の即席麺の米国進出を題材にしたケースメソッドを行った。
まず最初に進出すべきかどうかという問いに対し、80%の人が進出するという決断を下した。
さらに進出する場合のポジショニングをどうするかという問いに対し、70%の人が市場が存在しない新カテゴリでいくという。
よく周りを見ていると、進出するという人は新カテゴリで、進出しないという人はもし進出するなら既存市場にポジショニングするという。
つまり、進歩的な人と保守的な人に分かれたのだ。中間に位置した人は5%くらいだった。
私は新カテゴリで進出するという完全な進歩派だった。
後で考えれば確かに進出することはいくつかの高いハードルが存在した。だからこそ、ポジショニングは既存市場にして比較的楽にいく方法を検討してもよかったかなと思った。

家に帰ってから思い出した。以前、マイナスイオンを発生するソックスの販売を検討したことがあった。いろいろ試してみたけどまったく売れなかった。それで当時は、マイナスイオンの衣料という市場はなかったので、まず市場を作るために莫大な広告費用が必要だと気づいた。
ソックス(靴下)という市場はあるのだから、そこで贈答用というコンセプトでいけばまだ可能性はあったかな。
どうも私はepoch-makingなことをしようとしてしまう傾向がある。だから堅実だとおもう手法を追求するように心がけてちょうどいいのかもしれない。(同じクラスの人たちも同じだ。気をつけよう。。。)

最後に、結論のようなものが出たところでちゃぶ台をひっくり返すようだが、実際には日清食品ははじめ新カテゴリで進出して失敗したが、最終的に成功を納めた。失敗があっての成功だったのかもしれない。そう考えれば、失敗できる範囲内で失敗して経験を積むことこそ、大切なのかもしれない。

評価システムを考える (成果主義)

昨日は野田稔先生のHuman Resources Managementに出席した。話題は成果主義について。学部のときの私の卒論のテーマは能力主義だっただけにこの辺の話には敏感だ。

それにしても野田先生は情熱的でinspireされるものがある。ご自身の考えを持ってはいるがそれを押し付けようというところはなく、柔軟さが伺える。それは聞いている方が論理的な自分の考えを持たなければならない状況に追いやられる。さもないとついつい聞き流してしまうだけになってしまうことになる。

さて、課題は成果主義の定義をせよ、というもの。高橋伸夫 『虚妄の成果主義』での定義はあるものの、他にはなさそうだ。そこで自分なりに定義するとどうなるか。
成果主義の定義は、事業の目的達成に対する貢献度とその過程を評価することである。
成果主義の目的は個人または組織にその活動の結果(貢献度)をフィードバックすることで、反省と次の貢献につながる行動を促すことである。
成果は事業活動によってもたらされる結果であり、成果を出すことが事業の目的ではない。同様に組織で働く人々の結果として成果が出たり出なかったりするが、成果を出すことが目的ではない。P.F.ドラッカーによれば顧客創造が事業の目的であり、利益としての成果は事業活動の妥当性を判定する基準に過ぎない。
事業活動の結果だけでなく、結果が出るまでの過程は、その組織の理念や方針に沿ったものでなければならない。理念や方針は組織の存在意義を示すものである。存在意義の体現は顧客へのメッセージでもある。理念に反する行動は、事業体が本来意図しているものとは異なるメッセージを顧客に与え、自ら存在意義の否定につながりかねない。
評価方法は経営理念(または方針)、組織文化、事業特性を考慮して決定されるべきである。例えば、個人間に大きな差をつけるのかつけないのか。チャレンジングな目標設定を受け入れる組織文化なのか。変化の激しい事業なのか。安定した事業なのか。例えば、個人のスキルへの依存度が高く、変化の激しい事業で、労働流動性が高いが非常にチャレンジングなことを好む従業員が多い場合、目標管理制度(MBO)が効果的であろう。個人目標は常にストレッチゴールを設定することが自己表現であり、目標も3ヶ月に1回見直しても問題ない。
評価対象は個人と組織で分ける方法もある。個人の貢献度と事業の目的達成度が必ずしも一致しない場合もあるから、最終的な評価結果は個人評価x組織の成果となる。
人が人を評価する以上、正確性を追及することは不可能だ。むしろ納得性を高めることを追及すべきであろう。それには、評価する人とされる人との定期的なコミュニケーションとフィードバックは必要だ。どこを評価してどこを改善すればよいのか、また手本になるような人は誰かを具体的に知らせる。評価に透明性を持たせようとすることは、評価する方が正確な評価をせざるを得ないことを意味する。